夏侯惇はこの戦いで負けず、しかも楽進を失わずに済んだ。自身は眇と成ったが、軍としての崩壊は免れたのだ。失敗を最小限に食い止め、大敗を免れた。これは、夏侯惇が「名将」である証左に他ならないだろう。敵の動きを視て奇襲に備え、適材を適所に配置し、準備を整えた後に、冷静な計算で危機を凌いだ。徹底的に叩かれる事を避け、巧く逃げ、力を削がれる事を回避した。

この戦闘後、夏侯惇の渾名から「風」の一字が剥落した。以後軍中に於いて夏侯惇は、「盲夏侯」と呼ばれる様に成る。夏侯惇の持つ多くの異名の中でも、これ程親しみを込めて一般の兵士達に使われたものは無い。戦功とはならなかったが、名将である事を示した将軍への、敬意から付けられた渾名であった。「盲夏侯」と兵が言う時は必ず憧憬の念が含まれていたし、「我が盲夏侯麾下の軍」と兵士達が言う時、そこには必ず誇りと、夏侯惇への尊敬が込められていた。しかし夏侯惇は鏡を地に叩き付け、この名を嫌ったと云う。「風」の一字を気に入っていた為であろうと、当時の人々は推測し微笑んだ。

 

──「わが諸夏侯曹伝」の中──


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