「たしかに、太祖は二千年のちも語られる一大英雄である。しかし、わしは帝王になろうとは思わぬし、憧憬することもない」
「では──いずれの人物を?」
 司馬懿は、寂しく笑った。
「諸葛亮孔明、ただひとりである──」
「…………?!」
 聞いて、司馬昭は言葉もなかった。
 司馬懿は、孔明を、まさに激しい憧れをもって、いつも見詰め続けてきたのである。
 孔明の軍略、戦術、民政、外交、兵器開発、……あらゆる手腕が、司馬懿の一歩上を行くのだ。孔明の鮮烈な方策を見聞するたびに、司馬懿は五体に電光が走る衝撃をおぼえ、同時に、このような人物になりたいと、強烈に願うようになっていた。
 曹操は、帝王として、二千年のちも語り継がれようが、宰相としては、同じ時代を生きた者の中で、孔明こそがそれにあたり、自分は決して孔明より上を行くことはない。
 才能にも敗れ、また伝説となってなお、諸葛孔明に勝る機会は、ついにないのだ。
 だからこそ、その孔明を崇敬してやまない。
 孔明の好んで食べるものを摂り、好んで用いる衣服を着、好んで抱く女を妻とする……なにもかも孔明を真似たかった。孔明と同じ暮らしぶりを送ることにより、おのれも奇計百出の大軍師になれるような、そんな気がした。
 恥じることなく、司馬懿は、息子に、長年秘めてきたその想いを、吐露したのだった。
「カク昭はな、おそらく、わしの心奥にあるこの想いを、看破しておったのだろう……。おのれの死にのぞんで、忘却してしまいたい、呪わしい過去を文章にまでして、わしに忠告してくれたのだ……。孔明なぞ崇めるものではない、あれは美少年に色狂った凡夫に過ぎぬ──とな……」
 どさっと、雪が落ちた。
 庭にある松が、身軽くなった枝葉を、ゆらゆらと揺すっている。
 冷め切った白湯を一口──。
 椀を離した司馬懿は、込み上げてくる馬鹿々々しさに、哄笑を堪えることはなかった。
「諸葛亮孔明を知って二十年──。あれほどの英傑はおらぬと憧れ、その暮らしを盗み、かの人の風を少しでも模倣せんとしたおのれの愚昧の程はどうだ?百世の大軍師と敬慕した人は、少年ばかりを私物とすることに快楽をおぼえる凡下であったわ……。そのような人物に、わしは半生を費やして憧憬して止まなかった……。世に、これほど虚しいことはあるまいぞ!!……わっはっはっは──」


  終

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