曹操軍の夏侯惇は、字を元讓と云い、沛国の人である。汝陰侯夏侯嬰の末裔であり、その後裔である事を誰もが納得する程に、緯武経文。雄偉であり、鋭い眼をした、図抜けて賢い特別な男であった。

 夏侯惇は幼い頃、樹齢が何年あるか解らぬ程の桜の巨木を、独力で伐り倒した事がある。弟や従兄弟達に、自分の膂力を見せる為の悪戯だった。しかしこの庭木の桜は、夏侯の家が大切に育ててきたもので、一門の宝である。伐られた桜を見た大人達は、誰が伐ったかと皆激怒した。この為に大人達は、倒した者を殺そうと、躍起になって犯人を捜す。軽い気持ちで伐り倒した夏侯惇であったが、これを見て流石に事態の深刻さを悟り、恐る恐る正直に名乗り出た。とは雖も、桜の木は迚も堅い。樫や檜程では無いとは言え、子供の悪戯で出来る事では無いと、大人達は始め、嘘を吐くなと叱り、幼児の言に取り合わずに犯人捜しを続けた。しかし弟の廉や従弟の淵の発言でそれが事実である事が判明すると、大人達は驚愕し、そして夏侯惇の罪の一切を許し、逆に誉めて誇りとした。それは夏侯惇の正直と強力に感心した為である。この一件以来、夏侯惇は幼いながらも、一族の中で一目置かれる存在となった。後に翹秀と評価される軍将としての萌芽は、この時既に芽生えていたのである。


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