青少年期には広く知識を求め、年十四にして師に就いて学び、兵学経学は基より、篆額、音楽、海岳と、多くの事象に精通した。好学にして向学の念が強く、多該覧。博物誌「関東動物記」の編纂を行い、その博覧な事も良く知られる事となる。無論相変わらず武勇にも優れていた為、師を侮辱した者を始め、乱暴狼藉を働く者を見れば義憤し、次々と撲殺した。栴檀は双葉の頃より芳し。夏侯惇はこの様にして、雌伏の時を過ごしたのだった。

中平六年四月に霊帝が崩御すると、昭寧元年九月、董卓は少帝を廃して弘農王とし、当時九歳であった陳留王劉協を帝位につける。永漢元年十一月、董卓は相国となり、実権を握った。これに対抗する為十二月、曹操が己吾にて挙兵すると、夏侯惇はこれに従い司馬として軍務を担った。この董卓懲罰戦役中、十名の歩兵を連れた夏侯惇は、董卓個人の護衛隊指揮官を殺害している。これが評価され、以後も曹操の腹心として軍事と政務に携わる事になった。

 こうして夏侯惇は政軍の両面から曹操を支え、曹操の力が強力に成る事に伴ない、遂には将軍へと昇進する。

夏侯惇は、勇猛さと冷静さを兼ね揃えた廉潔な武人であり、政事に通じた軍政家であり、又、軍議を円滑に進行させる事にも優れた幕僚であった。個性派揃いの曹操軍が上手く纏っているのは、実にこの練達した男の働きが大なのである。


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