曹操の父曹嵩を徐州牧の陶謙が殺害させた為、初平四年、曹操は三万の兵を用い徐州への侵攻を開始した。この時、曹操の本拠地である東武陽を預かったのも、信頼厚き夏侯惇である。東郡太守として、本拠防衛の任と兵站の輸送を担う事となった。夏侯惇の支援もあり、進撃は燎原の火の様に拡大し、曹操軍は十余城を次々と攻め落とす。

しかし翌興平元年。曹操の将軍陳宮が広陵太守張超等と結託し、呂布を引き入れ謀叛を起した。曹操軍の後方部隊は、その偵察能力の低さから呂布軍の規模を大きく見誤り、大軍であるとして誤報する。誤った情報を基に夏侯惇は治安に乗り出し、そして失敗をした。その為留守を任された者達の多くは恐慌状態となり、各地で敗れ、呂布の軍門に下った。この際、曹操の勇将李乾も呂布配下の健将、薛蘭、李封の二名に斬られている。

呂布軍の分進合撃は実に見事で、曹操領は僅かに東阿を含む三城のみとなった。その為曹操の本軍は已む無く撤兵し、徐州は辛うじて守られた。夏侯惇は、程立、薛悌の二名と相談し、無理な奪還をせず、「用戦の法は兵の要道に非ざるなり」と按兵し、三城を死守する事だけを目標に設定。最も兵の纏まりの良い東阿で曹操の帰還を待つ事にした。それ程に呂布の軍勢は強力だったのである。

夏侯惇は己の失態を恥じ、琵琶をゆったりと掻き鳴らす。聴く人を安らかにさせるその涼しげな曲調も、実は本人の燃える様な心情を隠す為のものであり、焦りを抑える為のものに他ならない。殺伐とした音に満ちていないのは唯偏に、夏侯惇の人並み外れた技量に因る。


>>次項