「おいおい。百戦を百勝できる者がいると思うのか?」
夏侯惇は訊ねる。
「恐らくは居りません」
「では、名将は居らぬという事になるのではないかな?」
夏侯惇は意地の悪い目で満寵を見た。しかし、
「いえ。だから負けぬ事、なのであります」
と満寵が言うと、戸惑い目を見開いた。
「それはどういう意味だ?」
夏侯惇の問いに満寵は答える。
「はい。小官が考えますに、永遠に勝ち続ける者など、人の世にはおりません」
最早満寵の緊張は、好い加減に解れていた。
「しかし、完全な負けを避ける事の出来る者は存在すると思います」
「つまり?」
「徹底的に叩かれる事を避け、巧く逃げ、力を削がれる事を回避する。勝つ事は出来なくても、はっきりとした敗戦までには至らずに戦闘を終了させる事が可能な人。これではないでしょうか。勝つ事と負けぬ事の、その示す意味が違う事は、ご存知の通りであります」
夏侯惇は思いがけない事に口を開け、満寵の続きを待った。
「つまり小官は、最悪の場合でも再起不能な程の負けを回避し、次回の反撃に備える事の出来る将こそを、名将。そう呼ぶのだと思うのです」
満寵の言葉を聴き終えた時、夏侯惇は心の中で、林檎の果実が地に落ちる様な感覚を覚えた。何か高い処にあった貴重な物が、引力に因って夏侯惇の心触れた様な気がした。否、真理が夏侯惇の心を軽く叩いた様な感覚と言えば良いだろうか。頓悟して、棗祗の言う意味に気付いた。