しかし、呂布に分散させる程の戦力は元より無いし、濮陽は道の交わる要所。夏侯惇には矢張り敵を手強く感じる。各地を守備する小部隊を各個撃破する方が、余程楽な仕事に思えた。

夏侯惇は濮陽の北四十里に、兵站の為の第一次陣地を整備し始めると、休む間も無く工兵と輜重兵を残し、四千名を以って再び南下を始めた。濮陽周辺は水に恵まれており、河川が複雑に絡み合う。これは農耕には適すが、行軍には不都合な事が多かった。それで後の進軍の為に、先の大橋を押さえる事を目的としたのである。

しかし敵は当然の様にそれを見抜いていた。夏侯惇が常識的に、第一次陣地を建設してから動くとは思わなかったのである。

楽進の大隊が橋に差し掛かった時に、敵は後ろから伏撃を仕掛けた。敵の対応は、夏侯惇の予想を大きく超えて早すぎた。楽進は恐らく橋側からも攻撃を受ける事になるだろうと予想する。そして恐らく、今楽進を救出に向かえば、今度は本当の攻撃を敵は開始するだろう。先程届いた楽進よりの通信自体が、嚮導本隊を誘い込む為に、故意に見逃されだけという可能性は、非常に高いのだ。橋と一個大隊は諦め、築き始めた第一次陣地を固守すべきだと、理性が夏侯惇に警鐘を鳴らしていた。楽進に自力で脱出をさせ、夏侯惇自身は用心し、今直ぐ退くが最も被害は少ない。楽進の大隊が全滅したとて、それは僅かに一個大隊なのだ。全隊を危険に晒すのは愚かだと思う。


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