人は寝る時、目を瞑らねば眠る事は出来ない。これは、視覚による情報が、脳の休息を妨げる事に由来する。目というのは脳と特に密接な関係を持つ、脳の出張器官の様なものなのだ。目はその神経も殊更に太く、又柔らかな為、刺激には頗る弱い。多くの強靭な肉体を作る術でも、そこを鍛える事は無論出来ない。それは体躯に優れた夏侯惇とて例外は無かった。そんな弱い組織を破壊され続けながらも、速度を落とさず駈けているのである。これを我慢し、平静を装うその意志力も亦、夏侯惇を名将として仕立て上げている一要因に他ならない。夏侯惇は気が狂いそうになりながらも辛抱し、平気を演じて済々と青毛を駆る。その疾走は、夏侯惇の苦しみとは裏腹に軽快で、続く士卒達の不安を掻き消した。
夏侯惇は手綱を緩めず、突撃の準備をする。前面の騎馬百五十に集中し、最早弩弓騎馬兵の事は頭の片隅にしか無い。夏侯惇の思考の大部分は、前面への突撃と、傷の痛みに占められていた。
これ以上夏侯惇に先頭を走らせてはならぬと、騎兵達が次々と追い付き、そして抜いて行く。その頃軍候が横に並び、落馬せぬ様右から夏侯惇を支え、大声で兵に指示を出した。一見指揮下の騎馬は隊列を乱したかに見えたが、それは一瞬の事で、次第に夏侯惇を中央に、綺麗な竪陣へと組み直されていく。
陣を鮮やかに組み替えた右隣を駆ける初老の軍候を視て、現場には未だ未だ人がいるものだと素直に驚く。