建興六年──。
 蜀の諸葛亮孔明は、先に街亭に敗れ、無念の撤退を余儀なくされていたが、再び北伐を敢行した。
 この年、魏では曹休が石亭に陸遜の謀計に嵌まり、大いに敗北した。この痛撃を浴びた魏は意気阻喪し、また揚州方面・呉国境に軍勢を派していた為、関中における防備は手薄であった。
 諸葛亮が、これを好機と見たのは当然と云えた。
 同年十一月、彼は三軍を統率して漢中を出撃、散関を経て、十二月には早くも陳倉を囲んだ。
 陳倉は、長安西方にある要害である。漢中から見れば、斜谷道は北進して分岐し、一方はビへ、一方は陳倉へ向かう。こと陳倉は、そこから長安へまっすぐに経路が伸びている。蜀がこれを奪取すれば、もはや長安は指呼の間であり、魏の側では何としても死守せねばならぬ重要拠点にほかならなかった。
 ただ、城そのものは、まさしく難攻不落、金城鉄壁を誇る要塞なのであった。
 屏風のように切り立った断崖と断崖の狭間を巧みに利用し、攻むるに難く、護るにまことに易き絶妙の築城法をもって、建てられている。
 ここに──カク昭がいる。
 陳倉という最重要地を守護する将として、カク昭を推したのは、司馬懿仲達であった。
 彼は、カク昭のいかに優れた良将であるかを早くから看破し、かの地の防禦においては、この者を置いて他になし──そのように、明帝・曹叡に強く懇願した ものであった。


「孔明の攻め様は、あれはまるで別人であるかのようであります」
 司馬昭は、遡ること一ヶ月ほどまえ、そのように父に述べた事がある。
「……たしかに──平素の孔明とは、信じ難い程に拘泥の観が強い」
 司馬懿もまた、その感想を吐露したことだった。
 まことに──。
 陳倉を攻撃する諸葛亮孔明は、憑かれたように遮二無二力攻するばかりであった。
 これまで、幾度となく発揮されてきた神算鬼謀ぶりは、このときは、片鱗もな い。

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