蜀丞相・諸葛亮孔明が、陳倉の守将・カク昭へ降参を勧めると聞いて、これを諌めんとしたのは、姜維ばかりではなかった。
 成都から、陣中見舞いに訪れていた蒋エンもそのひとりであった。
 蒋エンは、面上に朱を散らして、
「丞相、なにとぞご再考あれ!!我が方が戦勢有利であれば知らず、今のカク昭に、こちらの軍門にこうべを垂れる理由はござりませぬ!!」
 その諫言を、微笑をもって受け止めた孔明は、
「わたしの近習で、キン詳という物がある。このキン詳は、実はカク昭とは幼童の時分に親しい間柄であった。キン詳を遣わせば、あるいはと思う──」
 蒋エンは、あの神のごとき智謀を有した孔明が、こんな陳腐な策計に頼ることが、どうにも理解できなかったが、その考えの翻然となることの不可能を悟り、ついに沈黙するのであった。
 孔明は、キン詳を、陳倉城へ向かわせた。


 キン詳が使者として現れたと告げられたカク昭は、城内の居室にあった。
 彼は、鏡台の前にいた。
 この戦いの始まったころとは、彼の姿形は、まったく変貌していた……。
 洛陽宮のいかなる美女にも勝る艶冶な美貌は、すでに無い。頬は削げ、皮膚は黒ずみ、五体は痩せこけてしまっていた。ただ、両の目だけが、光を失わず、炯々と輝いているばかりだった。
 カク昭は、鏡に映るおのれの姿を、凝っと見詰めていたが、不意に、咽喉の奥から生暖かい塊がせり上がってくるのをおぼえ、双手を口へ押し当てた。
 ぶっ、ぶっ、と泡を噴くカク昭の十指の間から、ぬめりのある赤い液体がこぼれた。
 カク昭が肺の病を得たのは、もう五年ほども前であったが、悪化が一時に進んだのは、蜀軍との激戦が始まってほどなくの頃であった。
 ──いま、我が天寿が尽きようとは……!!
 愕然となるカク昭ではあったが、しかし、諸葛亮孔明を退け得るまでは、死してなお陳倉を護り切る知略を、鈍らせてはならぬと、おのれに言い聞かせてきたのであった。

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