「このカク昭が、二度と再び孔明に膝を屈することがないのは、貴公はもっともよく存じておろう──。主の女々しさを諌める忠勤を働かぬばかりか、のこのこと我が前へ現れ、気味悪くも女子に成すべき容姿への賛美の言辞を並べる剽げぶりは、幼少の時分といささかも変わらぬ!!……本来なら、即刻刎刑に処して血祭りにあげるべきところだが、命だけは助けるゆえ、早々に立ち返り、諸葛亮に雌雄を決さん旨、申し伝えられよ!!」
 云い捨て、とっとと座を立って消えようとした。
 キン詳は慌てて、
「しばらく!!……伯道殿、しばらく!!」
 字を呼びつつ、懐から一書を取り出した。
「それがしは帰る!!帰って今のお言葉、確かに丞相にお伝え致す!!……ただ、この書状のみは、どうかお納めくだされ!!」
 歩を停めて、カク昭は差し出された一書に視線を注いでいたが、数拍の沈黙ののち、ふっと口許をゆがめた。
 そして、次の瞬間には、凄まじい形相を作って、ぎろりとキン詳を見据えるや 、
「帰って孔明にしかと申せ!!──おのれの恣意性癖を抑する理性もなく、変質の衝動に駆られて煩悩のままに動く者を、世上、痴愚と申す!!」
 その大喝を浴びせたのだった。


「カク昭は、ついに丞相の記された書を、受け取りませなんだ……」
 キン詳の復命を受けて、孔明は、なんの反応も示さず、ただ、寒風に身をさらしたまま、鉛色の曇天の下で、黒々と盤距する陳倉の城を、いつまでも眺めやっているのだった……。
 蜀軍が、ついに陳倉攻略をあきらめ、しずしずと漢中へ引き揚げていったのは、それから十日ののちであった。
 陳倉側では、この機を逃さず、城門を開いて追撃すべきであったかもしれない。しかし、孔明相手に、それを指揮統率できるだけの人物は、もはやいなかった。
 陳倉の城壁上で、敵の退陣のさまをしかと見届けたカク昭は、そのままおびただしい血を噴いて、昏倒し、ふたたび目覚めることはなかったのである……。

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