建安十九年の夏は、異様な猛暑であった。
 その狂うばかりの暑熱の中、劉備玄徳が成都を下し、その城門をくぐったのは五月である。
 前領主・劉璋は、三万の精兵と十年分の糧秣を備蓄しながら、これ以上の戦火を無辜の民におよぼすは忍びないとして、潔く降伏したものであった。
 諸葛亮孔明もまた、劉備の頭脳として入蜀し、軍師将軍・大司馬府庫となった。
 入蜀後、彼がすぐに行ったのは、新領土の巡察であった。
 諸葛亮の本分は、じつは軍事よりも政務、こと民政において存分に発揮されたのである。
 各地を巡視し、その問題課題を吸い上げ、いちいち是正し、新法を施し、悪吏を放逐して公平な裁判を行い、貧困層に衣食を与え、野に埋もれる遺賢を探した。
 西蜀の地は、劉備入蜀による戦乱の直後でありながら、まったく動揺することなく、かえって秩序が守られたのは、ひとえに諸葛亮孔明の治政の辣腕によるのであった。


 巴郡江州の地は、益州にあっても要地であった。
 成都と荊州を結ぶ通商道に位置し、その宿駅としての役割は大きく、交易の中継点となって殷賑を極めていた。
 むろん、中華全土は云うに及ばず、東南亜細亜、印度、欧羅巴からも多くの行商人が入り込んでくる。
 だが、かれら商人達の間で、この蜀という地での商いに、共通の困難がある。
 道であった。
 蜀の桟道は、天にのぼるよりも難し──まさに、四川の山々は、巍々として天を割り、落ち込む谷は、奈落と云うも愚かなほどに深い。穿たれた断崖の横穴へ、細々と打たれた桟道の、これを進むことの艱難辛苦は筆舌に尽くせぬ。牛馬のたぐいは、むろんわずかしか通れず、また、道によってその場で捨てざるをえぬ箇所も、二、三にとどまらぬのであった。
 かわりに、かれら行商人が重宝して使うのが、人足であった。
 人であれば、牛の通れぬ細動も渡れたし、馬ののぼれぬ絶壁も伝うことができた。


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