それでも、文欽は、この人間とは思われぬ容姿をした我が子を、おのれの後継として育て上げることに、ためらいはなかったようである。
 かれは、文鴦を幼児より厳しく教育し、文武の道を叩き込んだのであった。
 長じるにつれて、文鴦はよく父の期待に応え、七歳で六韜三略を諳んじ、十歳で大人五人を一度に打ち負かす武勇を発揮し、十五歳で初陣を飾るや、数千の敵衆に単騎躍り込み、その総大将を、まるで袋の中のものを取り出す容易さで討ち取る武勲を立てたのである。
 文鴦の備えた武人としての天稟は、絶大であった。
 だが、人々は、けっして、この文鴦に心からの賛辞を送ろうとはしなかった。
 文鴦のバケモノじみた風姿は、かれの成長とともにますます醜悪さを増し、顔面を除く身体のあらゆる部位は、鉄のように硬い体毛で覆われてしまったし、また、どういうものか、背丈の伸びはまったく停まり、すでに齢三十を迎えても、七、八歳のこどもと変わらぬ矮小さであった。
 このような奇形で、人間離れした胆勇を見せる文鴦に対し、この時代の人々が、悪魔か死神にとり憑かれた恐ろしい存在として嫌悪するのも、無理からぬことであった。
 文鴦が、どれだけ抜群の将才を披露しても、かれは常に孤独であった。
 まして、女人と交わることなど、生まれてから、ただの一度もない。その肌に触れることはおろか、口をきくことさえなかった。
 幼い頃から、女人がおのれを見る目の、なんと蔑んだ色であったか──おのれの実母さえ、この姿を目の当たりにして、絶命したのである……。文鴦は、いつしか、女性というものを恐怖し、その生活の上において、これを近づけることを一切しなくなったのである。ゆえに、文家の家人、家僕はことごとく男とされた。
 父・文欽も、息子のその悲哀の程は理解していた。自家から女の色を抹消することに、難色は示さなかった。
 もっとも、この醜悪極まる文鴦という人物に、あえて近寄ろうとする女人はいなかったのも事実であったが……。


>>次項