だが、文鴦は、その尹大目からの文面に目を通すことなく、父に返すや、
「時期は、いまだ尚早であると申さねばなりますまい」
 顔色も変えず、言い放ったのである。
「時期尚早とは──?!……理由はなにか?」
「まず、尹大目は軽薄の徒でござる──かれの言に信を置くことは、はなはだ危険でありましょう」
「ふむ!」
 息子の言葉に、文欽も呻かざるをえない。
 たしかに──。
 尹大目は、時勢の流れを読み取り、より強勢なる方へ巧みにすり寄るにあたって、受けた恩義を弊履の如く捨て去るに、ためらいをおぼえぬ変節漢であった。
 かつて、魏の宮廷内は、司馬懿仲達と、魏帝の一族・曹爽によって権力が二分された時代があった。いわゆる双頭政治であるが、司馬懿も曹爽も、その野心たくましく、双頭のままでよしとは到底考えなかった。互いに、謀計を巡らせて、政敵を失脚せしめんと企図するのは当然であったし、また、東西の歴史を見ても、双頭政治などというものが、長続きしないことは自明であった。
 まず動いたのは、曹爽の側であった。
 見事に司馬懿の握る権限をひっぱがし、おのれのものとするや、かれを野に追いやることに成功したのである。このとき、曹爽の左右の軍師として働いたのが、大司農・桓範と、殿中校尉・尹大目であった。
 ところが、司馬懿は迂愚耄碌の態を装って、曹爽を長期に渡り油断せしめる計に出た。


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