そもそも──。
文欽・文鴦父子、ならびに、かれらの上官にあたる揚州都督・鎮東将軍・カン丘倹らが、司馬師打倒を狙う背景は、魏の国情があまりにも悲愴であるがゆえであった。
嘉平六年──三国の英雄たる太祖・曹操が礎を築いた魏において、大政変が起こった。
このころ、すでに司馬師・司馬昭兄弟の権力は絶大であり、亡父・司馬懿の時代を凌いでいた。魏帝の威権はほとんど失墜し、まさに傀儡の人形でしかなかった。その人形を、おのれの意のままに操り、我が一族繁栄のためだけに利用したのが、司馬兄弟なのである。
また、宮中にある文武の諸官は、その献言のすべてを、魏帝ではなく司馬師に上奏した。司馬師も、帝に裁断を仰がず、すべておのれの差配で決めた。殿上では、長剣を帯び、玉座に拝礼することもなかった。
人々は、帝は畏れずとも、司馬師には恐れおののいたのであった。
この惨状にあって、むろん、魏朝に、義憤を燃やす忠烈の士がいなかったわけではない。
太常卿・夏侯玄
中書令・李豊
光禄大夫・張緝
この三名の高官は、他の廷臣らが、行動を起こす勇気を持てぬ中、密かに語らい、司馬兄弟の覆滅を画策したのであった。