また、光禄大夫・張緝の息女は、魏帝・曹芳の皇后であったことから、これを通じて天子の密詔までも用意することに成功した。あとは、時をはかり、司馬師の油断を辛抱強く待たねばならなかったが、三名はことを急いていたので、密会すること三日と空けぬ頻繁さであった。
 司馬師は、ただの権力者ではなかった。
 その知力は、父である司馬懿仲達の資質を譲り受けて、卓絶するものがあった。宮廷内における群臣の動向を把握することが、おのれの権力を保持し、磐石と成すに、もっとも肝要なる一事であることを、十分理解していたのである。
 むろん、この三名の動きを、感知できぬ司馬師ではなかった。
 たちどころに──。
 夏侯玄、李豊、張緝とその一族のほとんどが捕縛され、その日のうちに、都大路に晒されてのち、三歳の幼児も含め、容赦なく首斬られたのであった。
 また、天子・曹芳の皇后が、先に述べた通り張緝の娘であったので、これを後宮から引きずり出し、同じく処刑したのである。
 曹芳は、司馬師の裾にしがみついて、皇后の助命を乞うたが、
「天子たるものがなんたる無様か!」
 と、司馬師の大喝をあびて、突き飛ばされてしまった。
 さらに──。
 司馬師の暴挙は、この曹芳にも及んだ。


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