正元二年、揚州・淮南地方に拠るほとんどの武将が、反司馬師の兵を挙げた。
 これをまとめあげる総大将は、揚州都督・鎮東将軍のカン丘倹であった。その股肱として、揚州刺史・文欽があるのは、言うまでもない。
 文欽は、まず主人であるカン丘倹に献言した。
「それがしの倅、文鴦に、兵をお与えくだされ!手始めに、徐州との境を陥れてみせる、と勇んでおり申す!」
「うむ!頼もしいことである!鉄騎二千、歩兵五千を引具してゆくがよかろう」
 カン丘倹は許した。
 たちまち──。
 文鴦は、その将才を存分に発揮した。
 電光石火とは、このときの文鴦を指すのであろう。
 与えられた歩騎七千を統率して、寿春を東へ発したかれは、鍾離に至るや、紅、淮陵を瞬く間に制圧し、さらに義勇兵を募って一万以上の大軍を編成した。
 東進して淮陰に入るや、いたずらに日時を費やすことを嫌い、リョウ、淮浦へ怒涛となって進撃し、両城の太守を血祭りに上げた。
 勢いはやまず、海西、曲陽を奪取したのち、進路を西へとって司吾を得て、徐州の州都・下ヒに迫る凄まじさであった。
 この間、文鴦の鬼神ぶりは、目を瞠るものがあった。
 醜い面体ながら、漆黒の駿馬にまたがって、二条の鉄鞭を自在に打ち振るい、先陣きって敵中に躍り入る様は、竜巻のごとくであった。立ちはだかる者は、そのすべてが弾き飛ばされた。
 また、立てる戦術はことごとく成功し、ときには、我に三倍する兵力差を逆転せしめる大勝を収めるのだった。
 しかしながら──。


>>次項