しかし、司馬師は静かにかぶりを振り、
「いや──。そなたには、別に申し付けねばならぬ一事がある……」
「どのようなことでも──」
骨と皮ばかりの兄の手の感触に、司馬昭は内心の驚愕を抑えつつ応えた。
「そなたは、すぐに手勢をまとめて、長安へ向かうのだ。……わしが淮南へ出向けば、必ず蜀の姜維が関中を狙う!目下、姜維をして、一歩も我が魏領へ踏み込ませぬ知略を具備しておるのは、そなたのみである!」
「…………」
司馬昭は、言葉もない。
命数まさに尽きんとしている兄の頭脳は、死病に憑かれてなお、明敏なのであった。
なるほど、姜維であれば、必ず軍勢を催して侵略してくるに相違ないのである。
「心得た!姜維は、このそれがしが必ず食い止める!……兄上には、安堵して、南へ赴かれよ!」
弟の勇言に、微笑を返す司馬師であった。
果たして──。
蜀の姜維は、その後、司馬師南征の報に接するや、大軍をもって長安を窺う姿勢を示したが、兄の命に従い、万全の防御陣を敷いた司馬昭に阻まれて、成すことなく引き揚げていったのは、言うまでもない。