どれほどの時刻が経過したであろう──。
 徐々に夜が白んで来た頃合となって、靄が視界を覆い始めている。
 文鴦は、ただ一騎、東へ向けて疾駆を続けていた。
 肩にも、背にも、太ももにも……幾本もの矢が突き立ち、無数の太刀傷を受けて、満身朱に染まっていた。
 父・文欽の助成得られずとはいえ、豪快に敵陣を切り裂いた文鴦であったが、ついに引具した一千五百騎のすべてを失い、さらに司馬師その人を追い詰めることも叶わず、虚しく項城を目指して落ちているのであった。
 しかし──。
 小さな起伏をなす丘陵を巡ったとき、文鴦の眼前に広がったのは、闇の中で鎮座する楽嘉城の黒影と、その城外へ、間隙ない布陣を成して、大地を埋め尽くす大軍の威容であった。
 それは、トウ艾の依頼を受けて、新たに着陣した王基、胡遵の両軍勢であった。(この間に、トウ艾は南方から攻め来るであろう文欽勢の動きを予測し、これを撃滅すべく息子のトウ忠と共に潜行している)
 文鴦は、瞑目して、朝を迎えようとしている天地の気を、すぅーっと肺の奥にまで吸い込んだ。
(──おれは、敗れたわけではない!)
 ぞわぞわと、かれ特有の剛毛がうごめき始める。
(──闘いは、終わってはおらぬ!)
 肉に食い込んでいた矢が、ひとつ、またひとつと、自然に抜け落ちた。
(──項城には、都督・カン丘倹の無傷の軍勢がある!さらに寿春にも、いまだ温存された諸隊が待機しておるのだ!)
 五体の隅々に、ふしぎな力が、ゆっくりと満ちていくのをおぼえた。
「おれは、まだまだやるぞ!華蓉よ!待っていてくれ!勝負はこれからなのだ!我が妻よ!」
 かっと目を引き剥いた文鴦、清澄の空気をはらむ天へ向け、野獣の咆哮を残しておいて、楽嘉城を避けず、その只中へ突進して行った。


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