第四章

 将軍に付いて魏国に入った私は、将軍に師事して知識を身に付けることに没頭した。
 私は、江北の地から魚復に至り、再び江北へと戻った時、満足感を得たもののそれは日に日に小さくなり、反対に自己嫌悪感が大き くなっていった。それら一連の流れが、全て将軍の手柄である事を意識したからだ。
 それに僅かに缺を以て返事をした陛下、またそれ応じた将軍の意図を微塵も理解出来な かった自分が恥ずかしく、それだけのやり取りで信頼関係が、まるで揺るがなかったお二人のことを羨ましく思ったのである。
 事実、魏に来て直ぐに、蜀に残してきた将軍の御家族が処刑されたとの情報が飛び交ったが、将軍にはまるで慌てた様子は無かった。
 あの竹簡に或いは書いてあったのかも知れないが、だとしても信頼関係が成立っていたからこその落ち着きだったのだと思うのだ。
 私が知識を身に付けることに没頭した背景には、それらの推論を自己満足の範囲で裏付けようと云う気持ちがあったのかも知れない。
 私にとって幸いだったのは、魏と云う処が人が多く、物資も豊富で、知識を身に付けることに適した環境だったと云うことだった。 つまり、流通や交流が盛んで書なども手に入 り易かった為に、家財などを蜀に置いてきた将軍の新しい家にも徐々に品物が集まり、私も恩恵に与かれた訳である。
 しかし、面白いもので知識を得れば得る程、分からない事が増えていくのだ。
 推論を裏付けられるようになると、新たな疑問が湧き、それにまた推論を立てる。そんな事を繰り返すうちに、何時しか九年もの歳月が経過していた。
 その間に陛下は崩御され、成都に残っておられた皇太子が即位されたと聞く。また、将軍が魏に降参された時の魏帝・曹丕も既に故人で、今はその息子である曹叡が魏の主とな っていた。
 将軍はと云えば、その曹丕から非常に高い 評価を受け、他にも司馬と云う高官は将軍に
 「蜀には貴殿ほどの人物が多くいるのか」
と驚いたと云う話であるが、まるで愉快な素振りを見せたことはなかった。
 唯一、何年か前に蜀の諸葛丞相が兵を率いて進攻してきたとの報が魏の朝廷をも震撼させた時には、少しだけ満足そうであったが、 それだけである。


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